≪ 3月21日(金)祝日 ≫

四月も間近だというのに、この肌寒さはなんだ。
公園の池のほとりを歩きながら、僕はコートを着てこなかったことを少し後悔していた。

明日、転勤のため静岡を出る。
そんな僕のために、今日は一条先輩が花見に誘ってくれたのだった。


「先輩、まだちょっと寒いですね。それに桜もまだつぼみだし…。」
両腕を抱えるようにして、僕は目の前を大股で歩いて行く先輩に話しかけた。
「まもる、今日の俺たちに、花が咲いているかどうかは、大きな問題ではないな。」
黒いライダースジャケットの先輩は立ち止まると、池の向こうにある、まだつぼみも堅そうな桜の木を見ながら僕にそう答えた。

「…誰もいないですね。」
無人の公園を見回して、僕は先輩につぶやいた。
「だが、お前と花見をできるのは今日しかない。サクラ、ヒャッホー!ほら、まもるも叫べ!満開をイメージしろ!」
いきなり強制されても、僕は先輩とはキャラが違いすぎる、第一恥ずかしい。
「え…。サ、サクラ、ヒャ、ヒャッホウ…ですか、てか、まだ咲いてないし。」
「まだまだだな。そんなことでは、コンクリートジャングル、トウキョウでやっていけないぞ。」
「先輩、東京で暮らしたことありましたっけ。」
「ない。」
自信満々に先輩は答えた。


いつもと変わらぬ先輩の態度を見ながら、僕は先輩とのこんなやり取りとも、もうお別れなんだと、少し感傷的になってしまった。
「まもる、今、おセンチさんになっていただろう。」
図星です、先輩。
いつも思うが先輩の不思議な言葉使いは、なんなんだろう。

「そういえば」 と、先輩が思い出し笑いをしながら話し始める。
「まもる、去年の夏のこと覚えているか。」
「なんでしたっけ。」
「二人で野外フェスに行った時、まもる、出張だと得意先にウソついたよな。」
「えっ、それ…。」
「で、結局それがばれちまって。」
「それ全部先輩の話でしょ!なんか、すり替わってますよ。」
「俺がそんなことする訳ないだろ。」
思い出を美化するのは、先輩の得意技だ。

「東京に行ったら、そういういい加減なことではだめだぞ。俺はもうフォローしてやれないからな。」
なんだかんだいって、先輩はやさしいな、と僕はしみじみ思った。
「俺は、東京には住んだことはないから、向こうで気をつけることを詳しい友人達に聞いてみた。」
知たり顔で先輩は続ける。
どんなアドバイスをしてくれるのだろう。


「いいか、まもる、東京は方向音痴にはつらい都市だ。まさにダンジョン!友人曰く、出かける時は地図を持っていると便利だそうだ。」
「地図…ですか?」
「ただ、いつも持ち運ぶのも大変だろう。そこでだ、まもる、このアプリをお前に教えよう。」
そう言うと先輩はスマホを取り出し、そのアプリ画面を僕に見せた。
「先輩?これ、世界地図じゃないですか。東京では使えないかと…。」
「何も東京で使わなくてもいいじゃないか。」
「えっ?先輩、話が変わってきてますよ。」
「まもる、あまり細かいことを気にするな。いつか必ず役に立つ時がくる。」
「信じていいんですかね、そのアドバイス。」
「俺の友人が言うんだから間違いない。」
先輩は満足げに笑みを浮かべた。
※1



僕たちは、池の上に突き出た回廊から見える景色をしばらく眺めていた。


「よし、まもる!今から海に行くぞ!」
突然の先輩の提案に僕は我に返った。
「海?だって、今日は花見じゃ…。」
「もう十分満喫しただろ。最後の一日だ。思い残すことなく、全ての場所をその目に焼きつけておけ。」
先輩は、僕の戸惑いなど無視して続ける。
「人生はお前が思うより、ずっと短いからな。迷っているヒマなんかないぞ。」
先輩の提案は、いつだって唐突だ。